輝くということ
2016年08月28日
オリンピックが終わりました。何時ものことながら4年に一度、筋書きのないドラマをたくさん見せてもらいました。その中でも女子レスリングで伊調馨選手がオリンピック4連覇を成し遂げたことには驚かされました。この件で国民栄誉賞を受賞するという話が出ています。4つのオリンピックで頂点を取り続けたというのですから目を見張るものがありますが、決勝戦で残り時間数十秒で逆転をしての金メダルには何とも言えない運命を感じました。素人の私が見る限り試合内容は互角に感じました。もちろん相手選手は「打倒、伊調」で徹底的に攻略法を研究して戦いに臨んでくるわけですから優位に試合を進めることは至難の業なのでしょう。それでも最後の数十秒で、勝負の神様は伊調選手に微笑みました。あの最後の数十秒で金メダルを、国民栄誉賞をもぎ取ったと言えます。しかし、もう一度勝負をし直せば同じ答えが出たでしょうか?そう考えると、オリンピック金メダルというのは実力だけで取れるものではない何かを感じるのです。
先日、「神様に選ばれた試合」というテレビ番組が放送されていました。過去のいくつかの日本人の心に残る試合が取り上げられていました。その中の1つのエピソードが、今から19年前「ジョホールバルの歓喜」と呼ばれるワールドカップの最終予選、イランに勝利し初のワールドカップ出場を決めた試合をその場面の当事者であった監督、選手たちが回想する内容でした。この試合で日本は劇的な逆転勝利するのですが、この試合前選手たちは、日本国民の期待に応えなければならないという重圧に押しつぶされそうだったでしょう。何故なら4年前のワールドカップ最終予選で、ロスタイムで同点に追いつかれてワールドカップ出場を逃したいわゆる「ドーハの悲劇」での屈辱を晴らすことが日本人の悲願だったのですから。そんな中で、同点ゴールを入れた選手、決勝ゴールを入れた選手、途中交代させられたエース、その交代を決断した監督、運命の歯車はその選手や監督の人生を大きく変えていくことになります。そして悲願の初出場を果たしたワールドカップに選抜された選手、されなかった選手、そしてそのワールドカップ本戦での全敗の敗退、その敗退となったエースのバッシング等、次から次へと運命の歯車は回っていきます。勝てばもてはやされ、負ければけちょんけちょんにけなされ・・・期待されるということはそういうものなのでしょう。
オリンピックやサッカーワールドカップ、ここに関わる選手たちがその輝きを見せるとき、私はその輝きの中に桜の花を思い浮かべます。輝くことの儚さを感じるのです。ほんの少しの差で輝ける選手、ほんの少しの差で輝きを手に入れることができない選手、また手に入れていた輝きを失う選手、実力はあるのに輝くことができない選手、色々な選手がいます。実力だけでは説明できない運命のようなものがあります。そして運命を味方につけ手に入れた輝きを掴んだ者もその輝きを永遠に持ち続けることができないのです。人間の命が永遠でない以上、必ず終わりが来ます。だからこそ掴んだ輝きがその瞬間、美しく見えるのです。
「ジョホールバルの歓喜」の頃、私は一週間ごとに次々と金融機関、証券会社が倒産し、サッカーどころではなかった記憶があります。あれから19年が経ちました。我々は色々な輝きを見せた人たちを見てきました。また輝きを失った人も見てきました。でも、人生は続くのです。「人生万事塞翁が馬」です。目の前に起こった出来事に一喜一憂せず、我々ができる最善の道、真面目に、真摯に生きていきたいものです。