35年ぶりの再会
2012年05月05日
ゴールデンウィーク中に中学の同窓会がありました。私は今まで中学・高校・大学のいずれも同窓会というものには参加したことがなく今回が初体験でした。中学の同窓会自体は数年ごとに開催されていたらしいのですが、中学・高校は大阪だったため、連絡が取れなかったり仕事で休みが取れなかったりと、なんだかんだと言い訳しながら出席しなかったのです。結局35年ぶりでの友人との再会となったわけですが、やはり恐れていたことが現実になりました。友人の顔を思い出せないのです。卒業生180人中、80数人が参加となったのですが声をかけられた半数は顔を思い出せず、そのうちの半数に関しては名前さえ思い出せませんでした。私のことは名前に特徴があるせいか覚えていてくれた友人が多かったのですが「お前の家に遊びに行ったことがある」「こんな悪戯をして遊んだ」と言われても全く記憶にないのですから情けない話です。有酸素運動をすることで脳の老化を防止しているはずなのですが。
今回の同窓会で感じたことですが、前々回のブログに書いた「錯覚の科学」の中にも出てくる“人間の記憶力がいかにいい加減か”という事です。まあ35年前の話をするのですからいい加減な話になるのは仕方ないとしても、私にとって鮮明に覚えていることを友人は全く覚えていなかったり、行動は覚えていてもそのきっかけが全く違っていたりしました。
例えば、私は中学時代の三年間、ずっと思いを寄せていた同級生の女性がいました。三年間告白することなく卒業し、どうしても忘れられなかった私は、高校一年の時、告白の手紙を出したのです。結果はあえなく撃沈、「そんな気持ちになれない」のたった一言、メッセージの返信をもらいました。その当時の失恋のショックは相当なものでした。失恋というのはこんなにつらいものなのかというほど落ち込みました。こんなにつらいものならもう人を好きにならないと思ったほどです。また、その時もらった手紙は社会人になるまで大切に持っていました。(ここの意味が自分自身良くわからないのです。ふられた手紙を大切に持っている事が。)
そして卒業以来一度も会っていない彼女と今回35年ぶりに再会をしたのです。そして当時の話をしたところ、彼女は全く覚えていないというのです。手紙で告白されたことも、その返事を出したことも、全く。(トホホです)そんなものなんでしょうね。いじめられたことは鮮明に覚えていても、いじめたことは忘れてしまっていて記憶がないなんていうことに似ているのでしょうか。
人は、どんな出来事でもその出来事を喜怒哀楽でもって記憶にすり込んだことは長時間経過しても忘れることがなく、感情を鮮明にしなかった出来事は忘れてしまうという事なんでしょう。「涙とともにパンを食べたものでなければ人生の味はわからない」ですね。
感動される仕事をしなければ顧客に忘れ去られるという事です。
ちなみに私は、最後まで参加できませんでしたが盛り上がった友人たちは朝まで飲んだらしいです。50歳での朝帰り、これぞ大阪人のパワー、勉強になります。