過ぎたるは
2013年02月08日
「過ぎたるは及ばざるがごとし」と言いますが最近の一部の日本人の反応を見ているとやり過ぎ、行き過ぎを感じます。
中国の大気汚染の問題が大きく報道されています。何でも日本の大気汚染の基準値を何倍も上回る汚染物質が日本の一部地域に届いているとか。迷惑な話です。しっかりと抗議せてもらいたいものですが。日本でその飛来してくる汚染物質を遮断するマスクがその一部地域で売り切れ状態になっているという報道を聞くとそれはまた行き過ぎなんじゃないかと思うのです。私が小学生の頃、夏頻繁に光化学スモッグ発生のため、体育の授業が禁止になりました。その様な日でも休み時間、放課後、外で遊びまわっていましたが体に変調をきたした記憶はありません。(先生に叱られた記憶はあります。)
原発の放射能漏れにしてもそうです。今回避難区域を余儀なくされている地域も含め、一連の福島原発事故による放射能漏れでは人体に影響はないとされているのに過剰に反応し、放射能が運ばれた一部エリアの野菜は気にして食べなかったり、地域によっては子供を外で遊ばせない等、やり過ぎです。放射能そのものより、そんなことに神経過敏になるほうが体に悪いと思うのですが。
いじめの問題もそうです。確かに簡単に聞き逃して良い問題ではないのかもしれません。しかし実際の社会に出れば大変厳しい競争にさらされるのです。そこで大変な挫折をしたり、屈辱を味わうこともあるのです。いじめのない学校をめざし、それが実現できたとしてそれが本当の子供たちの為になるのでしょうか。人が集まって社会ができれば必ずいくつかの集団ができ、複数の集団がぶつかり争いになっています。それは歴史が物語っています。結局、有史以来人間が作った社会で争いがない社会など存在しないのです。だからこそ子供たちが社会に出たとき必ず起こるであろう「争い」に対処できる人間に育てるのが教育だと思うのです。争いのない社会を作為的に作ったとしてそれでどれだけの意味があるのでしょうか。「水清ければ魚棲まず」「商人と屏風は曲がらねば立たず」行き過ぎた正義は、危険だと教えるべきです。
約30年前に、大変な視聴率だったテレビドラマ「おしん」が映画化されるそうです。主人公のおしんが経験する出来事は今で言う「いじめ」そのものです。色々な辛い経験をおしんは何人かのキーパーソンとの出会いを通じて「辛抱」を覚え、数々の苦難を乗り越えてい きます。そうして、自分の欲望を抑える「我慢」ではなく、周りの厳しい環境に耐え忍ぶ「辛抱」を覚えていくのです。
我々はもっと「辛抱」を覚えなければなりません。そしてそれを次世代の子供たちに教えなければ。